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セックス・ピストルズ Sex Pistols

セックス・ピストルズ

1978年1月。サンフランシスコ、ウインターランドでの最終公演。 ウインターランドは収容人数5000人の、セックス・ピストルズにとって最大級のホールだった。
「騙されたって気持ちになったことがあるかい?」
ジョニー・ロットンがセックス・ピストルズとしての最後のステージで吐いた 有名な言葉。

パンクの帝王セックス・ピストルズ。セックス・ピストルズは70年代後半、世界中にパンク・ロック・ムーヴメント を巻き起こした、ロック史上最重要バンド。

メンバー
ボーカル・・・ジョニー・ロットン(ジョン・ライドン)
ギター・・・スティーヴ・ジョーンズ
ベース・・・シド・ヴィシャス
ドラム・・・ポール・クック

スティーヴ・ジョーンズとポール・クック

スティーヴ・ジョーンズ ポール・クック

スティーヴ・ジョーンズは母親に憎まれていると思いながら、ひどい子供時代を送った。 家は貧しく、母は若く、義父はひとでなしで、スティーヴはお荷物だった。 スティーヴは1人、隔離された青春を送った。 若い頃に両親と有意義な話をした記憶もなく、人生設計もなかったが、音楽にはずっと興味があった。 また、スティーヴにはコミュニケーション障害があって、会議にも耐えられず、席を立って逃げてしまう タイプだった。

スティーヴ・ジョーンズは成人前に既に14の罪状を抱える犯罪記録を誇っていた。 1年半ほど更生施設に送られたが、スティーヴが犯した罪は未成年犯罪の扱いだったため、 刑務所に入ったことはない。 18歳を過ぎれば刑務所に入れられたはずだが、その年齢に達するころにはセックス・ピストルズと してバンド活動をしていた。そのため前ほど盗みに走らなくなっていた。 

シェパーズ・ブッシュ地区にあるクリストファー・レン・スクールで スティーヴ・ジョーンズはポール・クックと出会った。 ポールが別の学校に通ってた頃から顔見知りで、スキンヘッド・ムーヴメントが 始まった頃には、2人ともスキンヘッドになっていた。 スティーヴはおしゃれしてサッカーの試合に行くのが好きだった。 また万引きのコツを心得ていてサッカーの試合後に商店を略奪するのが楽しみだった。 まるでカオス、アナーキーの世界だ。 欲求不満の子供だったスティーヴにとってサッカー・フーリガンは格好のはけ口だった。 15歳で自活するようになったスティーヴは、ポールと一緒にシェパーズ・ブッシュ・マーケット 辺りをうろついていた。 スティーヴやポールはレンジャーズ、チェルシー、フルハムを応援していたが、 試合よりもサッカー・シーンそのものが好きだった。

ジョニー・ロットン(ジョン・ライドン)

ジョニー・ロットン

ジョニー・ロットン

ジョニー・ロットン・・・・本名はジョン・ジョーゼフ・ライドン
ロンドン生まれのアイルランド系イギリス人。

ロットンという名は、ジョニー・ロットンの緑色の歯をみてスティーヴがつけたニックネーム。 スティーヴはロットンに「お前はくそったれの腐れ野郎だ」といつも言っていた。

ジョニー・ロットンは異常に恥ずかしがり屋で内気な子供だった。 ロットンはスラムのような労働者階級地区の借家で育ち、 11歳頃まで住んでいた家は寝室が2つで、風呂はなく、トイレは野外にあり、 トイレの脇の小屋にはネズミが群がっていた。 学校に向かう通学路で、イングランド人の大人からものを投げられることもあった。 カトリック学校に行く途中にあるプロテスタント移住区は、いつも走って通りすぎていた。 「汚らわしいアイルランドの野郎ども!」なんて罵声を浴びながら。

ある日、ジョニー・ロットンの人生を狂わす大事件がおこる。 ある朝、ロットンは気を失って、病院に担ぎこまれた。 頭がボーっとして、体が浮き上がって白昼夢を見ているような不思議な感じがし、 見た幻覚は肝が潰れるほどたまらないものだった。 その病気は髄膜炎だった。 幻覚症状が続いて、周りの物体に焦点を当てることも出来なくなった。 たまんないほどひどい頭痛に悩まされ、熱にうなされ、体が腫れあがった。 食べることも出来ず、嘔吐し続け、その後深い眠りに落ちて意識不明となり、 ペニシリンを打たれ、一年間病院にぶち込まれたまま。 6、7ヶ月間、意識の淵をさまよい、その後数か月のリハビリを受けた。 退院の時に迎えに来た両親を、ジョニー・ロットンは覚えていなかった。 玄関に入るまで、家の場所も思い出せずにいた。 1年遅れで学校に戻るが誰も記憶になく、クラスの仲間に入り込むことが出来ず、 ロットンは1人ぼっちだった。

学校でのジョニー・ロットンは目立たない生徒だった。 中学校に入る12、13歳までは問題を起こさない、苛められっ子だった。 読書や勉強は好きだったが、授業はくだらないと思っていた。 また体育の授業が心底嫌いだった。 14、15歳あたりで、ようやくロットンは型を破って爆発した。 勉強はできるが態度が悪いという、教師にとってロットンは 最も厄介な生徒だった。 ロットンは教師と敵対し続けた。そのため15歳で学業以外で問題ありとされ カトリック学校を退学になった。 その後転入し、また学校に通うようになるが徐々に出席しなくなり、 肉体労働の仕事をしながらさまざまな場所で寝泊まりし、生活をおくった。

ジョニー・ロットンはいろんな仕事をしていたので、歳のわりにはお金を持っていた。 そのお金でロットンはレコードを買いあさった。 その頃ロットンは、アリス・クーパーやデヴィッド・ボウイ、T・レックスに興味があった。 また、ロットンはレゲエが大好きだった。余談だがジョニー・ロットンはアーセナルのファンでもあった。 ジョニー・ロットンは痩せこけて、髪の毛をツンツンにして、ビリビリのシャツに安全ピンをつけていた。 これが後にパンク・ファッションと呼ばれることになる。

シド・ヴィシャス

シド・ヴィシャス

シド・ヴィシャスの本名はサイモン・リッチーあるいはジョン・ビヴァリー、本人もどっちが 本名か知らない。母親の気分しだいなのだから。 シド・ヴィシャスとジョニー・ロットンは公立学校で出会った。 ロットンが転入して2週間後、シドとロットンは友達になった。 シドという名はジョニー・ロットンが飼っていたハムスターの名からとり、ロットンが シドと呼ぶようになったのが始まり。その後、ヴィシャス(凶暴な)という名前がつけ加えられた。

シド・ヴィシャスは母親と2人でハックニーの学校の近所に住んでいたが、貧乏だったため、 役所の命令により週単位で移動していた。 若き日のシドはファッションの虜だった。 デヴィッド・ボウイやマーク・ボランの格好を真似していた。

16歳の頃、シド・ヴィシャスとジョニー・ロットンは建物に不法侵入し、シドはスピードの 売人も始めた。2人は行きたい場所もなく、ただハイになりたいだけだった。髪を緑に染めて 家を追い出されたロットンは、シドと一緒に廃墟となった建物を次々と不法占拠していき、 体にたばこの焼け跡を作ったりして遊んでいた。

セックス・ピストルズの結成

セックス・ピストルズ

セックス・ピストルズはマネージャーのマルコム・マクラーレンがつくった、というのは ポップス界の伝説にすぎない。 真相はジョニー・ロットン加入前に、スティーヴ・ジョーンズ、ポール・クックらが集まって バンドを結成した。後にグレン・マトロックがマルコムの店で働いていた関係でマルコムと 関わることになる。

ジョニー・ロットン加入前のこのバンドは、それ以後とは似ても似つかないバンドだった。 イメージも特徴もなく、スモール・フェイセスをださくして、ザ・フーを真似た騒音を 出すだけのバンドだった。

ロットンはバーニー・ローズにローバック・パブに会いに来てくれと言われ、 そこでマルコム・マクラーレン、スティーヴ・ジョーンズとポール・クックに出会った。 マルコムにバンドに入る気がないかと言われたが、最初は冗談としか思わなかった。 バーニー・ローズが「歌マネができるかどうか見せてもらおうじゃないか」と提案し、 ジョニー・ロットンはベリー・ダンサーのようにクネクネ体をよじまげて、 アリス・クーパーのエイティーンを歌った。 マルコムは「よし、こいつで決まりだ」と思ったらしく、 ジョニー・ロットンの加入が決まった。 ポールとバンド構想を練っていたスティーヴは、ロットンの加入に反対して嫌悪感を示した。 スティーヴは頭のいいゲス野郎とロットンを評していた。 ただし、ロットンとスティーヴは暴力沙汰のケンカを最後までしなかった。

ジョニー・ロットンはリハーサルの初日、歌が下手だと罵声を浴びせられた。 セックス・ピストルズとリハーサルを始めた頃のジョニー・ロットンは引っ越しばかりして、 学校をドロップ・アウト後、父親の家を出たり入ったりを繰り返していた。 バンド加入後、ジョニー・ロットンは徐々に町で知られる存在となっていった。 プライベートではスティーヴやポールとはいっしょにはいず、ロットンは幼なじみとつるんでいた。

セックス・ピストルズにジョニー・ロットンが加入した頃から、スティーヴはギターの練習を 本格的に始めた。イギー・ポップやニューヨーク・ドールズのファースト・アルバムに合わせて 何度も練習した。
スティーヴ・ジョーンズはジョニー・ロットンとバンドを組むことについて
「俺はあいつとバンドをやるのが嫌だった。俺はロッド・スチュワート&ザ・フェイセズが好きだった のに、ジョンは全然違う趣味で、いつもヤな思いをさせられたね。あの態度は本当に胸くそ悪かったよ。」

ポール・クックの演奏スタイルはブーン、タッ、ブーン、タッという完璧なチャーリー・ワッツ ・スタイルだった。 ポールの演奏はメンバーがタイトで信頼していた。 そのお陰でバンドのカオス状態もうまく収まっていた。

グレン・マトロックとセックス・ピストルズ

セックス・ピストルズ

セックス・ピストルズの中ではグレンが一番メロディ感覚があったと言われている。 演奏の出来るグレン・マトロックがバンドにいたほうが音楽的にはやりやすかった。 だが、お坊ちゃん体質で、いつもこぎれいにして、「食事も決して抜かしません」という感じのマトロックは メンバーにつねに嫌われていた。

ジョニー・ロットンが"ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン"の歌詞を完成させて、リハーサル・スタジオに行って バンドのメンバーにみせたところ、グレンは「こんな曲、やれないよ。殺されちゃうぜ」 「この歌詞を変えなきゃダメだよ」と言い出した。グレンの母親が気に入らなかったためだった。 だが、ロットンは聞く耳も持たなかったし、議論もしなかった。

その頃、スティーヴはマルコムが借りていたリハーサル・スタジオに寝泊まりし、 ポールは両親と暮らし、ロットンとシドは一緒にハムステッドに身を潜めていた。 ハムステッドに嫌気がさすと、マルコムがキングス・クロスにフラットを借りてくれ、 ロットンらはたくさんの人間とそこで生活した。

75年11月、セント・マーティンズ・コレッジの学生だったグレン・マトロックが、その学校でセックス・ピストルズ として初めてのギグをセッティングした。 メンバー全員が緊張しまくっていた。演奏後、拍手は一切なく、客から「出て行け!」と罵声を浴びせられた。 その後も、さまざまな場所でギグを行った。演奏はひどかったが、客のリアクションは凄かった。 観客は大きく2つに分かれていた。バンドを額面どおりに受けたチンピラや、間抜けな野郎たち。 もう一つは、セックス・ピストルズに音楽の本質、つまり非常にパワフルなロック・ミュージックを見出した 人たち。

グレン・マトロック在籍時の初期のギグはタイトだった。変なしくじりもない。 グレン・マトロックは職人気質のミュージシャンでちょっと退屈だったが、グレンのお陰で バンドもメロディをはずさず演奏出来た。

しかし、その後メンバーとの不仲が原因で、オリジナル曲の多くに貢献したグレン・マトロックが脱退し、 シド・ヴィシャスが加入する。シドの加入でカオス的な雰囲気がバンド内に生まれた。 バンドで孤立していたロットンは、味方がほしくてシドをバンドに入れたかった。 シドはレコーディングが苦手だった。そのためレコーディングには脱退させたグレン・マトロックを 雇った。

イングランドにセックス・ピストルズ現る

セックス・ピストルズ

ジョニー・ロットンとシド・ヴィシャス

セックス・ピストルズは、ギグでは新しい経験ばかりで戸惑っていたが、ライヴで技を磨いていった。 76年の春には、クラッシュの前身である101ERSの前座をやった。 初期のツアー、特にイングランド北部のツアーは最悪だった。セックス・ピストルズは受け入れて もらえず、ギグでは毎回乱闘騒ぎだった。

セックス・ピストルズのファンは壁を壊して、音楽のうわっ面、表の顔を変えようとした。 ステージから飛び降りて、乱闘に加わるバンドは前代未聞だった。 曲の間に暴言やツバを吐くジョニー・ロットンは、シニカルだった。

マルコム・マクラーレンはギグのセッティングだけして、メンバーとツアー・マネージャー兼運転手の ニルスをバンに乗せて北部に送り出すだけだった。スタッフもいなかったため、機材もメンバーが セットしていた。 スティーヴ・ジョーンズは機材の確保が得意で、ジョニー・ロットンの加入前はしょっちゅう盗んでいた。 金がなく、他に方法もなく、スティーヴには盗みぐせがあったためだ。 スティーヴは盗みで生計を立てていた。お陰でポール・クックもドラム・セットを手にいれていた。

ジョニー・ロットンはステージから客の髪をぐちゃぐちゃにしたりして、毎回けんかをけしかけていた。 そのためギグの度にケンカが繰り広げられた。 メディアはセックス・ピストルズに注目しはじめ、シドが柱にぶつけたグラスが原因で目を怪我した 少女がいるとマスコミが大々的に取り上げた。だがこの事件の真相は遂にわからなかった。

マルコムはシド・ヴィシャスのイメージがずっぱまりだと思っていた。 リハーサルに参加し始めた頃のシドは、曲を覚え一生懸命ベースを練習した。 最初は、隅っこに立ちすくみ、ムッツリした表情で演奏するシドのイメージが客にうけた。 だが、慣れてくるとステージの前に出てくるようになり、曲をはずすようになった。 また、ロットンのようにライヴ中に客とケンカするようになる。 76年の初め頃から、セックス・ピストルズは、"100クラブ"というパンク・バンド専門クラブで 定期的に演奏するようになる。 その後、フランスやスカンジナヴィアをツアーした。

パンク・ムーヴメントの到来

ジョニー・ロットン

セックス・ピストルズの短い歴史が幕を開けて僅か4、5か月で多くのバンドが登場した。スージー&ザ・バンシーズ、 ザ・クラッシュ、ダムド、アドヴァーツ。
セックス・ピストルズはレコード契約もしていないのに、彼らの行動は連日、新聞の 見出しを飾っていた。反体制的な存在だとか、嘔吐したという話題で持ちきりだった。

そして、セックス・ピストルズに影響を受けたバンドが次々とレコードを出していった。 セックス・ピストルズもレコード契約をするために、デモ・テープの製作に入った。 マルコムの唯一の悩みは、ピストルズに興味を示すレコード会社を見つけることだった。

"ビル・グランディ・ショウ"に出演した際、ジョニー・ロットンが口の中でモグモグ言うと、 グランディが「なんて言った?」と訊いたため、スティーヴ・ジョーンズが悪のりして、 放送禁止言語を吐いた。 視聴者たちはテレビの"ビル・グランディ・ショウ"でのセックス・ピストルズの態度に激怒した。

セックス・ピストルズはチェルムズフォード・マキシマム刑務所でもコンサートを行い、 そこで何十年も刑期を宣告された囚人を相手に演奏をした。

EMIはセックス・ピストルズを簡単に追い出せるとタカをくくっていた。 EMI所属のアーティストたちもピストルズと同じレコード会社に所属したくないと文句を言い始めた。 パンク・ブームの爆発でレコード会社は足元から揺さぶられることになった。 レコード会社はこぞっていろんなバンドと契約した。パンクからはほど遠いバンドでも手当たり次第、 契約を結んだ。レコード会社はパンク・バンドを手のうちに取り込んで、シーンのメインストリームを 作り上げようとしたためだった。

契約したEMIからデビュー・シングル"アナーキー・イン・ザ・UK"を販売した。 "アナーキー・イン・ザ・UK"は受けが良かったが、EMIはレコードを急遽回収し始め、 その噂が瞬く間に広まった。チャートの28位に登場した途端に圏外に落ちてしまった。 この頃の、セックス・ピストルズは全国紙から毎日毎日中傷を浴びていて、 結果EMIから追い出されることになった。

反女王と人気の絶頂へ

女王

76年12月、ジョニー・サンダースと共演した通称「アナーキー・ツアー」は壮大な一大事件だった。 セックス・ピストルズは名前だけはビッグになったが、ピストルズには演奏会場もなく、金も 稼げない。レコードを出してくれる会社もないため、まさに貧民だった。

77年1月22日、ジョニー・ロットンは違法とされていた粉末減量剤を所持していたとして 逮捕された。独房にぶち込まれ、その日の夜にやっと保釈された。

セックス・ピストルズは2度目のレコード契約をA&Mと交わした。だが、度重なるスキャンダルで 77年3月の1週間しか続かなかった。

その後、セックス・ピストルズは3番目にして最後のレーベル、ヴァージンと契約した。 ヴァージンは新人アーティストを探し続ける家族的な会社というのを自認していた。

"ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン"は女王即位50周年の2週間後に発売された。 セックス・ピストルズは、テムズ川のロンドン塔観光ボートをチャーターし、友人らを招待してライヴをした。 このとき、セックス・ピストルズを阻止しようと動員された警官の数は異常じゃなかった。

77年の猛暑の夏の最中に出現したセックス・ピストルズの人気は最悪の不況の中で 頂点に達していた。 アムステルダム行きの飛行機に乗り込む前に、スティーヴ・ジョーンズがヒースロー空港で 酔っぱらって嘔吐して騒動を起こしたとマスコミが報道した。 セックス・ピストルズはノルウェー、スウェーデン、フィンランド、デンマークなどでも ライヴを行った。 スコットランドでは、市長がセックス・ピストルズを批判するスピーチをした。
毎回ギグの前には、メンバーがスティーヴを探しまわっていた。彼はよくゾッとするような女と 戸棚に隠れていた。スティーヴはバンドの中で一番セックスに取りつかれていた。
一方、シド・ヴィシャスはナンシー・スパンゲンとの関係がどんどん過激になっていく。

勝手にしやがれ(ネヴァー・マインド・ザ・ボロックス)

ジョニー・ロットン

"ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン"の発表後、ピストルズのメンバーは道で殴られるようになった。 毎日新聞に書き立てられ、1人で道を歩くのは物理的に不可能になった。 "勝手にしやがれ"のアルバムをレコーディング中にスタジオ近くでロットンは刺されたことも あった。1人のチンピラが窓を叩き割って、刃物を差し込んだため、膝に刃物が突き刺さり、 手にも短剣が貫通した。その怪我のせいで2度とギターが弾けなくなり、左手で拳を握ることも出来なくなった。 ロットンに対する暴行は一線を越えていた。窓からビンが投げ込まれたこともあった。 ロットンは道で刺されて以来、10人ほど用心棒を連れ歩くようになった。 アーセナルのフーリガンにロットンの友人たちがいて、彼らがロットンの用心棒のような役割をしていた。 また、長髪の反骨バンドからは、ピストルズに対して中傷が飛ぶようになった

77年、"デイリー・ミラー"紙のフォトセッションでジョニー・ロットンは十字架に貼りつけられた。 それが大勢の怒りを買い、またもセックス・ピストルズは堂々と社会に出られなくなった。

セックス・ピストルズはユーモアのある匿名を使ってギグをした。 SPOTS(セックス・ピストルズ・オン・ツアー・シークレットリー)の名で行われたシークレット・ギグは、 マスコミの騒動に付き合わずに活動を活性化する一案だった。

"勝手にしやがれ"のプロデュースはクリス・トーマスが行った。 スティーヴ・ジョーンズは、アルバム録音に参加したがるシド・ヴィシャスを、 スタジオに近づけないよう必死だった。 アルバム"勝手にしやがれ"のジャケットは誘拐犯の脅迫状ロゴのようなユニークなデザインになった。 "勝手にしやがれ(ネヴァー・マインド・ザ・ボロックス)"というアルバム・タイトルは、 このアルバムのタイトルをみんなで相談しているときに、スティーヴが吐いた言葉 「ああ、ファック。もう勝手にしやがれ!!」が採用された。

レコード屋がセックス・ピストルズのレコードを締め出した。 あのレコードは違法、攻撃的だと宣告され、「ボロックス」という言葉を問題にした。 セックス・ピストルズの音楽の中でジョニー・ロットンが波風を立てられたのは、歌詞とヴォーカルに おいてだけだった。ピストルズの音楽は労働者階級の世界を反映し、地に足のついたアプローチを取った。

ポール・マッカートニーはジョニー・ロットンといっしょにレコードを作りたいと思い、 マッカートニー夫妻はジョニー・ロットンを家に招待しようしたが、ロットンは"ジョニー・ショウビズ"に なりたくなかったため拒否した。

アメリカ・ツアーとセックス・ピストルズの早すぎる終焉

ジョニー・ロットン

78年1月、アメリカ・ツアーはアトランタ公演から始まった。 セックス・ピストルズはロックの受けいれが悪い南部からツアーをしていった。 ピストルズはアメリカで演奏することで、1からやり直してる気分になっていた。 周りの敵意も凄く、マスコミのくだらない戯言を無理やり飲み込まされていた。

シドはひどい状態でアメリカに到着した。 シドは髪型が崩れるからと帽子すら被らなかった。 シドにとってはなんにも増してルックスが一番だったからだ。 ツアーの後半ではロットンはメンバーと口を利かない状態が続いていた。

セックス・ピストルズのアメリカ・バス・ツアーには規律が欠けていた。 ギグの楽屋には食べ物もなく、金もない。ジョニー・ロットンは自分の体を痛めつけ、咳き込んで血を吐くように なっていった。毎晩乾ききった喉が体を痛めつけていった。 だが、シドの病気はロットンの病気とは比較にもならなかった。 ドラッグが切れたときのシドは死に体で、悲惨だった。 シドはアメリカ・ツアーの間マルコムを心底憎んで、襲いかからんばかりだった。

アメリカ・ツアー中のマルコムはバンドの破壊要因だった。 ジョニー・ロットンはヤク中のシド・ヴィシャスをクリーンに するため行動を共にしていたが、シドはドラッグを止めることができず ヘロインに走った。バンドメンバーは互いに憎しみあっていた。

ジョニー・ロットンはサン・アントニオのギグ会場での待ち時間に、メンバーに自分の作った作品 を聴いてもらおうとしたが、メンバーは聴こうとしなかった。 ロットンはスティーヴとポールとはもう終わりだと悟った。その後2人とはほとんど話さなくなった。

解散は慌ただしく決まった。最後のミーティングは最悪で、マルコムもスティーヴもポールもロットンに 怒っていた。スティーヴはロットンに「もうやってられない」と言い、ポールも同感だと言った。 ロットンは何とかバンドを存続させようとし、「お前たちは馬鹿だ、マルコム抜きで続けていこう」と言った がスティーヴとポールにはそれが正解だとは思えなかった。

サンフランシスコの最後のギグは究極の終点だった。 ジョニー・ロットンがもらったギャラはたったの67ドル。 セックス・ピストルズはその後リオデジャネイロに飛んで悪名高き列車強盗犯、 ロナルド・ビグスと一緒にレコードと映画を作る予定だったが、 ロットンとシドはそのことを知らされていなかった。 翌日から2人はマルコムと一緒に飛行機で移動して、ロットンとシドはヘルズ・エンジェルズと 2人の記者と共にバスに取り残された。

ジョニー・ロットンはセックス・ピストルズを脱退した。 マルコムはポールとスティーヴをリオに連れて行き、列車強盗ロナルド・ビグスと共演したが、それも 長くは続かず、セックス・ピストルズは崩壊した。

シド・ヴィシャスとナンシー・スパンゲン

ナンシー・スパンゲン

シドとナンシー シド・ヴィシャス逮捕写真

ナンシー・スパンゲンはニューヨーク・ドールズの残骸、ジョニー・サンダース&ザ・ハートブレイカーズ にくっついてイギリスにやって来た。 ナンシーはハートブレイカーズにホテルを追い出され、当時ロットンと共に住んでいた売春婦のリンダの 家に転がりこんだ。そして、家を追い出されたシドがロットンのところにやってきて 2人は付き合うようになる。

シドの楽しみはナンシーとドラッグをやることだった。 アメリカ・ツアーでジョニー・ロットンはシド・ヴィシャスをもう一度救ってみようと決心した。 だがサンフランシスコで全てはダメになった。 スターは危険なドラッグをやるべきだとナンシーはヘロインをシドに進めた。 シドは本気になってロックンロール的ライフスタイルを実践した。 ヴェルヴェット・アンダーグラウンドやルー・リードの人生アプローチを。

ナンシーと一緒にハイになる以外シドはなすすべを知らなかった。 シドが人生で唯一経験した真の感情がナンシーへの思いだった。 シドはナンシーに時たま電話していたが、バンドのメンバーはナンシーがツアーに同行すること を許可せず、ヘロインも許さなかった。 それでもシドはかなり麻薬をやっていた。

セックス・ピストルズ解散後、シドとナンシーはニューヨークへ飛んだ。 その後、シドはフランク・シナトラのカヴァー曲"マイ・ウェイ"をレコーディングした。 結局この曲がシドの代表曲となった。

ナンシー・スパンゲン(20歳)は78年10月、ハンティング・ナイフで刺殺された。 シド・ヴィシャスは殺人容疑で逮捕され、ライカーズ島に投獄された。 シドはジョー・スティーヴンスを通して刑務所からジョニー・ロットンと話したいとメッセージを送った。 ロットンもシドに弁護士をつけてやりたいと思ったが、すぐにマルコムとシドの母親に却下された。 この2人を通さずにシドと連絡を取ることは不可能になっていた。 シドは78年2月2日、グラウンドホッグ・デイという地味なアメリカの祭日に他界した。 ピストルズ崩壊から1年1カ月後、ナンシーの死から2カ月半後だった。

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